胎児の生存権と中絶について

2009年11月25日 05:00

以下の文章は、中絶について書いたエントリ「笑えないジョーク ーアメリカの医療保険改革と中絶についてー」に寄せて頂いたSiestaさんのコメントへの返答です。なぜかコメント欄に書けないのでこちらに書きます。以下を読む方は上のエントリ及びコメント欄にも目を通してください。




コメントありがとうございます。

はい、Siestaさんが個別の「ケアの問題」に興味を持ったうえで、前回のコメントを書かれたことはすごくわかりましたし、書いてある内容もとてももっともなものだと思いましたよ。私もケアの問題について話すとしたらSiestaさんの意見にとても賛成です。

さて、どこからが生命か。難しい問題ですね。

私もこの問題については、答えというものは持っていないのですが、かつて、中絶について調べた時にどこからが生命とされているのかという議論みたいのを調べ、それこそ、受精の時からだ、とか生まれた時からだ、とか無数の段階において論点があるのを知りました。

「どこからが生命か」というのは、確かに中絶のみならず、多くの場面で問題になります。もちろん生命の終わりについても議論があるのは、ご存知の通りで、脳死や尊厳死もそうですよね。私はこれに対しても明確な答えは持っていません。

(個人的には脳死については、母方の祖父がこれに近い状態になり、その時に終末医療について考えたことはあるのですが…一般的な「生命の終わり」がどこか、という意味では正直「わからない」です。というかまだ恥ずかしながらじっくり考えていないといった方が正しいかもしれません)

私は、これらの「生命」問題は、中絶や尊厳死問題のみならず、死刑や戦争なんかにも関わってくると思います。なぜなら、確実に「生命」であり、「生存権」があることに疑いない存在を殺すことも、一定の状況下で「合理化」されているのが私たち(Siestaさんと私)が知る現状だからです。私たちは 「『生命』である→すなわちそれを絶対に殺してはいけない」というルールのある社会には生きていないと思うのです。個人的にそれを是とするか非とするかはさておき、時に社会は、生命を一定の条件下で奪うことを合理化してきたと思います。

そういう意味で、「どこからが生命か」「どこから胎児の生存権が発生するのか」という問いはーこれ自体は非常に面白く興味のつきない話題ではあるのですがー、それは、それによって、社会が中絶を禁止するべきかどうかの答えがでるような論理的な関わりを持つものではない。むしろ、このトピックを中絶の権利の議論において持ち出すことには、慎重になるべきです。女性の自己決定権を社会が保障する手段としての中絶の話をしている時に、「どこからが生命か」という議論を持ち出し、胎児の生命を奪うことに対する女性の罪悪感を刺激する、というのは、中絶反対論者がよくやる手段です。(もちろん今回Siestaさんがそれをしているとはまったく思っていませんが)

「胎児の生存権」は確かに中絶と深い関係があるトピックではあるけれども、あくま別のレイヤーの話であることを意識し、そこを不用意に混同することは避けるべきだと思います。

ここで確認したいことは、中絶反対派が胎児を生存権のある生命と考えており、中絶賛成派が胎児を生存権のある生命だと考えてない、とかそういう単純な構図ではない、ということです。

中絶反対派も、どういう場合に中絶に反対するのかについてはいろいろなスタンスがあるし(全て一律ダメとは限らない)、中絶賛成派の中にも胎児を命だと考え、最大限に尊重するべきというスタンスの人もいるのです。

夜遊び好きの隠れた心理

2009年11月22日 19:20

今日は、ハリウッドで行なわれた、Uh Huh HerのRemixを記念したパーティにいってきた。



今回のパーティBooby Trapについては、前にもなんどかブログで書いたことがありますが、もともとヒップな子がくる結構エクスクルーシブな人気のパーティでした。ウェストハリウッドが、どちらかというとゲイタウンとしてガイドブックに載るような旅行者向けで一般的なのに比べ、Booby Trapはもっとローカルな子たちが来る。音楽もウェストハリウッドがトップ40とかヒップホップなのに対し、もっとエレクトロよりである。(ニュアンスとしては、渋谷のセンター街側で遊ぶか、桜ヶ丘側で遊ぶか、という違いに似ているかも?←分かりづらい?)

11時前くらいに到着。20分ほど行列に並んで丁度入り口でチェックインしていると、タイミングよく、Uh Huh Her のリーシャとカミラが、クレア・デュバルと一緒に登場。格好はカジュアルでグレーのパーカーの上に、紺色っぽいジャケットを着てる。クレア・デュバルと、リーシャたちは仲がよいらしく、前にもFalcon(ハリウッドのレストラン)で一緒にいるところを見ます。とりあえずやっほー!と手を振ってみると、ニコニコ手を振ってくれる。きゃー!相変わらずリーシャ優しいわぁー。

リーシャは、ぶっちゃけLAのゲイ・コミュニティにはよく顔を出している。私も実際にあうのは5、6回目くらい。会うまでリーシャのことは別に大好きではなかった。というか、アリスのキャラはそんなに好きじゃなかったの。私がLの世界で好きなのはララ。Out and proudなところや、アグレッシブなところが好き。でも、実際にキャストに会ってみて、一番フレンドリーで素敵だと思ったのはリーシャ。すごく好きになった!

そんな訳で内部にイン!

このベニュー「THE STONE BAR」は初めてだったけど、なかなか面白い小バコ。音楽もよい。いつもウェストハリウッドで流れる曲より全然いい。バーテンダーも超可愛い。だが、数が少なすぎる。バーテンダーをキャッチするのに永遠に時間がかかった!バーテンダーを捕まえる時に、アグレッシブになりすぎると、嫌われるし、やりすぎると、つまみ出されて出禁になる。バーテンダーにはあくまでナイスに、でも目に留まるように頑張ろう。カウンターでiPhoneをいじったりしていてはダメです。やっと出てきた飲み物はヌルい。なんだか切れそうになりながらも、クレジットカードのプロセスを待つ。…遅いっ!クレジットカードが戻ってきたときは既にビールは半分なくなっていた。気を取り直してダンスフロアに行く。楽しかった。Leahとかなじみの友達。新しい友達も作る。リーシャたちはさっさと二階のVIPスペースにいってしまった。別にコメントもしないしパフォーマンスもしないらしい。

Uh Huh Herの音楽が私は好きだが、まだ存在感としてはインディ感じで、ゲイ・コミュニティに支えられているバンドという感じがする。コミュニティ以外でUHHを聴いてる人はまだまだ少ない。例えば、同じようにレズビアンのミュージシャンで、Tegan & Saraとか、indigo girls,あともちろんメリッサ・エスリッジなどは、ゲイであることとは関係なくサクセスフルであり、ゲイコミュニティ以外のファンも沢山いる。UHHはまだコミュニティ内部のアイドルっていう感じ。ま、そこが親しみやすくて、いいんだけどね!自分の中ではLの世界のテーマソングを歌っているBettyとかと似てる立ち位置かな。

ま、そんな感じ。UHHを見れたのはよかったし、それなしでも楽しかった。Booby Trapはいついっても、女の子のレベル高すぎだし、音楽もいいので、今回もとっても楽しかったです!今日は一人新しいナンバーゲットしましたが、もう一人、すっごいタイプの子がいて、列に並んでる時とバーで待ってる時言葉を交わしてたのですが、連絡先を交換しなかったの。残念。でも、多分共通の知り合いがいるから、ラッキーだったらどこかでまた会えると思うけど。超可愛かった。うるさいほどアウトゴーイングで、自信たっぷりで、かっこいいブーツはいてた。次に会ったら迷わずデートに誘う。

ここ2ヶ月くらいまた夜遊びシーンに復帰していて、WeHoとか、それ以外のクラブやパーティもよく行ってます。夜遊び熱には波があって、毎週何回も行ってしまう時期と、「ああ〜もう夜遊びは卒業!」という時期が交互にくるのですが、今はすごい行きたい気分なのです。

多分、そこには、かなりsickな動機も隠れていて、私は自分では夜遊びすることがfeel good about myselfのために必要なのかなと思ったりすることがある。make upしてdress upして変身する。それ自体も楽しいし、その自分を使って、他人と思わせぶりなしぐさで交流することが、自分の中の何かを満たしてくれる。女装して外出するのが好きっていう人いるけど、似た気持ちかもしれない。そういう精神的な乾きを癒すために、私は夜遊びをしていて、そういう動機があることから、私は自分はWeHo中毒だと前から思っている。私の場合、クラブに行く理由は「出会いを求めて」というだけではない。だから彼女が出来ても、しばらくすると、夜遊びに行きたくなってしまうわけです。夜の世界での表面的な会話とか、理性を失った人々の欲望丸出しの仕草を眺めるのが私は好きなのです。肉と骨と皮膚と、それらの動きだけで誰かを判断し、それによって引き起こされる感情に身を任せること。自らもそのように上っ面だけで判断されることがが時に快楽であり私には必要なのです。

1月に、京都で、オフ会やります。

2009年11月21日 14:42

Stay tuned... ;)

笑えないジョーク ーアメリカの医療保険改革と中絶についてー

2009年11月17日 08:52

コメディアン「ある女性が医者に行った。

『肩こりが酷すぎて死にそうなんです。胸を小さくする手術は健康保険でカバーされるでしょうか?』

医者は、『問題ありません』と答えた」


聴衆「(笑)」

コメディアン「次の患者はこうでした。

『鼻づまりが酷く、うまく息ができないんです。鼻を高くする手術は健康保険でカバーされるでしょうか?』

医者は、『問題ありません』と答えた」

聴衆「(笑)」

コメディアン「次の患者はこうでした。

『私の胎児は無脳症と診断されました。どうやら、脳の一部と頭蓋骨がないようなんです。中絶手術は、健康保険でカバーされるでしょうか?』

医者は、『それはそれはお気の毒に…でも、保険ではカバーされません』と答えた」



聴衆「……(沈黙)」




この広告「笑えないジョーク」は、先日米国の下院を通過した健康保険改革法案について作られたものです。アメリカでは、国民皆保険システムに向けた大掛かりな医療保険の改革がなされようとしています。これはオバマ大統領の政策の目玉であり、何としても法律を成立させたいところ。だが、「死の審査会(デス・パネル)」などの反オバマ派によるキャンペーンに踊らされた国民は、タウン・ホール・ミーティングなどで地元に帰省してきた政治家に対して激しく反発。参加者が怒鳴り叫ぶなど荒れにあれたタウン・ホール・ミーティングの有様は、広く報じられました。




選挙区から選出されないと国会に議席がキープできない政治家は、地元民の声に弱い。そんなこんなで、健康保険改革法案が成立するかはかなり不透明であったが、いくつかあったアイディアを入れて、妥協した法案が先日通過した。その“妥協”の一つが「公的保険や政府補助金が妊娠中絶の保険支払いに充当されない措置を強化する修正(Stupak-Pitts修正条項)」であり、冒頭の広告で批判されているものである。

この条項は、レイプ、近親相姦、そして、母体に危険がある時などの例外を除き、中絶の手術、また中絶を含む健康保険に対しては連邦政府の公的資金が渡ることを禁止するものである。これは女性の人権を制限するものであり、宗教と政治の一体化であるとして批判が集まっている。

参考記事:10 Reasons Why the Stupak-Pitts Amendment Has to Go

日本でも経済的な理由などによる中絶健康保険適用外であり、費用が7万〜20万円くらいかかるようです。アメリカでは500ドル〜10000ドルするようです(時期によって異なる)。大体、テレビ番組などで言われるのは「5000ドル」が多いような気がします。中絶に対しては激しい反対勢力があり、今年の5月にも中絶を行なう医者が過激な中絶反対派によって殺されたりしています

健康保険改革法案については、まだ上院での審議が残っているので、このStupak-Pitts修正条項がこのまま法律になるかは分かりません。が、もしも法律になれば、現在アメリカのほとんどの民間の健康保険会社は中絶をカバーするプランをオファーしていますが、これらが今後連邦の公的資金が関わる場面ではオファーできなくなります。そして、公の健康保険だけではなく、民間の健康保険についても、そのプランに何らかの補助金を関わっている場合(おそらく大部分がこれにあてはまる)は、中絶をカバーすることができなくなります。つまり、一部の女性にとっては、現在既に持っている保険の内容が、健康保険改革によって奪われるということになります。

私は現在民間で提供されている健康保険の内容や、中絶の実体についての事実を把握していないので、断言的なことは言えません。以下は個人的な感想です。Stupak-Pitts修正条項は、中絶自体を禁じているわけではないので、直接的には中絶の権利を否定するものではないと思います。ですが、健康保険の適用外になることで、間接的に中絶という選択肢が取れなくなる女性がいることは事実なので、それがどの程度いるのか?保険の適用から外すということが、どの程度実質的に女性が自らの権利を行使することの妨げになるのか?等の客観的な評価をすることが不可欠だと思います。

健康な立場の人間からすると、健康保険があるかないかでどんな違いが出てくるのかは、想像することが少し難しいのです。が、健康保険を持っていない、もしくは自分の病気が保険でカバーされないために、大きな違いが出てくることは珍しくありません。簡単な病気であっても、経済的な理由で治療が受けられず死んでしまう人が沢山います。歯科保険を持っていず、80ドルの治療費を払えなかったばっかりに、虫歯をこじらせて死んでしまう子供もいます。そう考えると、中絶が保険でカバーされないことによって、中絶という選択肢を取れなくなり、影響を受けてしまう女性は沢山いるでしょう。ここらへんは、感覚では想像しきれない部分なので、中絶にまつわる様々な統計を見なくてはいけないと思います。

今回可決した健康保険改革法案については、Stupak-Pitts修正条項以外にも批判がなされており、決して最善のものとは言えないようです(参考記事1)。今後、上院での審議に注目したいと思います。

★ ★ ★

さて、後半は、健康保険からは離れて、一般的な中絶について書きたいと思います。中絶は、人権についての問題であり、また宗教的価値観が絡んでいる点で、“同性婚”についての議論と類似していると思います。私のスタンスを簡単に言うと、中絶手術の禁止などには反対です。中絶は、女性の権利の一貫として当然保障されるべきものだと思います。

もっとも、じゃんじゃん妊娠して、じゃんじゃん中絶すればいいとは全く思いません。そのように中絶がカジュアルに捉えられる世の中がいいとは思わず、中絶の件数は最小限に留めることができれば望ましいと思っています。私は『中絶は胎児の命を奪う行為である』という認識を持っている点で、中絶反対論者と共通しているかもしれません。

ただ、中絶することに必要以上の罪悪感を植え付けようとしたり、必要以上の経済的負担を課すことによって中絶へのハードルを高くすることには反対です。また、中絶=悲しいことというような固定観念にも疑問を覚えます(例えば、日本の中絶に関するウェブサイトで「かなしいこと」というのがあります。大変充実した内容の素晴らしいサイトだと思うのですが、なぜサイトの名前が「かなしいこと」なのでしょうか?決して中絶の体験者に罪悪感を植えつけて断罪するようなものではなく、プロ・チョイス/プロ・ライフという表面的な対立構図をたてるものでもなく、冷静で中立的な視点を持った自助グループ的なサイトなのに、サイト名およびドメイン名のおかげで「中絶はかなしいことである」という強いメッセージを発信し、中絶に対する固定観念を再生産してしまっているのではないかと思います)

中絶の少ない社会」を目指すべきであると思っている点で、私は中絶反対論者と同意できると思います。ですが、それを実現する為の施策は、「望まれない妊娠を防ぐ」という入り口の段階での対処(具体的には性暴力の予防、避妊の知識の普及、避妊器具や避妊薬へのアクセスを容易にするなど)によるべきであり、「中絶手術の制限」という出口の段階での対処によるべきではありません。

「可愛さ」なんてただの骨と皮と肉の構造

2009年11月14日 05:10

外見って本当外見でしかない、ということをしみじみ痛感する。

私は、「可愛いアイコン」リストを作るくらいなので、結構メンクイだ。人の顔を描くのも好きなので、誰かを見ると、まず顔に注目する。そして、ぱっと見て、「かわいいな!」とか「美人だな!」と思うと好意を抱きやすい。男性に対してもそう。イケメンだと、デフォルトで好意を抱きやすい。ここで言う「好意」は恋愛とかと関係なく、人間関係のベースとなる好意。例えば、相手がぱりっと清潔だったり、感じがよかったりする時にも感じる。

だが、同時に、そういう外見からオートマティックに想起される好悪というのは、完全に任意のモノであり、彼/彼女の人格とはほとんど何の関係もないということを最近痛感している。

誰かの外見が“いい”と思って、胸がきゅん!としたとしても、それは彼女がたまたまそういう外見を持っているというただそれだけの話。彼女が、もし全然違う顔だとしても、私は彼女にこういうように惹かれるだろうか?そういう惹かれ方じゃなければ、相手のことを好きだとは言えないんじゃないか?

具体例を出すならば、こう。Lの世界でシェーンが大好きな誰かがいるとして。シェーンはオシャレだし友達思いだしセクシーだし…とかいろいろ理由があると思うけど、結局「シェーンがシェーンの顔をしてるから」というのが、一番大きな理由の一つであって、その他の理由は全て補足に過ぎないと思うのよ。(その証拠に、シェーン・ファンは、ほぼ全員ケイトが好きだし、アリス・ファンはほぼ全員リーシャが好きでしょう?)シェーンが、もしもジェニーの顔してたら、それでも好きと言えるの?(ジェニーが、もしもシェーンの顔をしてたら、でもいい)きっと言えないと思う。

それを責めたり批判したいのではない。目が見える人が、人間関係においてビジュアル情報に大きく頼るのは、ごく自然なことだと思う。(人は見た目が9割とか言う本もあったよね!)

(私の大好きな映画の一つである『バニラ・スカイ』にもこのテーマは含まれている。映画ではハンサムな成功者の主人公(トム・クルーズ)が事故で顔面を大破される。この事実が以下に彼自身また周りの人物に影響を与えていくかが残酷なまでに描かれている)

ダークな肌は、アクティブに見えるし、長いまつげで俯けば、憂いげに見えるし、濃い眉毛は自信たっぷりに見るし、キュっとひきしまった唇は賢そうに見える。ニコニコしてればフレンドリーに見えるし、むすっとしてれば、怖く見える。まゆげがつりあがっていて、目とくっついていると、真面目で深刻そうに見えるし、逆にまゆげがハの字型で、目から離れているとのんきそうに見える。目が一重でつり上がっていると、冷たく見えるし、目が二重で垂れていると、親しみやすく見える…。

結局私が誰かを見て想像する「内面」の多くは、彼らの「外見(主に身体的特徴)」から導きだされるティピカルな自動的反応にすぎない。

もちろん、ある外見がどういう印象を想起させるかは、文化的に左右されるし(例えば、「たれ目」の意味するところが世界中で共通だとは限らない)、長い人生の中では、「外面が内面に影響」を及ぼすこともあるだろう(例えば、外見が原因でからかわれつづけた子は、性格にも影響がでるだろうし、どういう服をどのように身につけるか、というような身だしなみは、ある程度その人の性格を表すだろう)。

それでも、誰かの身体的特徴からその子の内面が推し量れる、というよりは、誰かの身体的特徴から想起されるその子の内面は、ほぼ幻想にすぎない、と言うほうがより真実に近いと思う。

特に、夜遊びの場で誰かと笑いあった場合にはそうだ!私が誰かに対してもつ第一印象は、全部そういう外見的要素からオートマティックに導きだされる脊髄反射的判断の組み合わせにすぎなかった!

このように人の判断において大きな影響力を持っている「外見」だが、ここで悲劇的なことは、“誰かが「そういう外見」に生まれたことは全くの偶然にすぎない”、ということ。「そういう外見」に生まれる、ということは、例えば、あなたが、その年に何番目に生まれた子供か、というような、完全に偶然的で、完全に無意味な要素にすぎない。

それなのに、目の見える人々は、そんな偶然的で無意味な「外見」に多くの意味を付与し、異常なほどにそこから駆り立てられる情動に身を任せてしまう。本来限りなく「無意味」に近いはずだった「外見」は、今現在、現実の人間関係において実質的に力を持ち、よって無視できないほど「意味」を持ってしまっている。

そんな、現実においては、誰かが「そういう外見」に生まれたことはーその外見が社会的に美しいとされていようが醜いとされていようがーその人がとらわれている一種の「檻」であり、その人が、その人自身として周りと触れ合うための「障害」とすらなっているのではないか。

私が誰かに対して「萌え」たり、「可愛い」と言ったりする時、それは、相手の美しさを単純に讃えているのではない。私が誰かを「可愛い」という時、私は相手を人間としては見ていない。まるで宝石の鑑定士の目、まるで、舞台の上に並ぶモデルを選ぶになっている。

それはそれで楽しいのだが、楽しみながらも、私はどこかで、相手の外見の魅力にとらわれている自分を意識するし、そこで不可避的に生じるコミュニケーションの限界に諦め/哀しみ/申し訳なさを抱きつつ、内心肩をすくめている。

私はそういうのを超えたところでコミュニケーションしたい。そういうのを超えたところで、誰かを好きになりたいし、相手からも好きになってもらいたい。

可愛い子を見てると幸せな気分になるし、「可愛い。あなたの顔が好き」と言われることは確かに心地よい。虚栄心を満たしてくれる。でもそこで止まってしまうのは虚しい。私は相手の顔が相手の顔じゃなくても好きになりたいし、私が私の顔に生まれてなくても愛されたい。「外見が自分の好み」とか「可愛い」という要素は、あくまで“ついてたらラッキー”程度のおまけでしかないのだ。

List機能で美少女&美女リスト(日本語)作ってみた

2009年11月11日 01:27

Twitterに最近出来た新機能LIST、皆さん既に使っていますか?
私は最近「可愛いアイコン」リストを作りました。

あくまで私目線でアイコンが可愛い★というファーストインプレッションで作っているだけなので、深く考えないで下さいネ。あくまで可愛い女の子アイコンなのでリスとか猫の写真とかイラストで可愛いアイコンというものは除外しています。また、お面やサングラスで顔がみれないもの、セレブの写真など、あからさまに他人の写真を使っているっぽいものも除外しています(一つ一つ確認はしてませんが、ぱっと見の印象で)。

かわいいアイコンのつぶやきをフォローしたい♪という皆さんフォローしてください!

http://twitter.com/yu_ichikawa/kawaiiicon


(勝手に自分のアイコンを足すなと言う方はプロテクトなりブロックなりで対処してください。←リストから外してくださいとかいうのは受け付けません。アイコンを顔以外に変えた場合はリストからも外します。ただしその後可愛くなったらいつのまにか足されるかもしれません。よろしく)

また、このアイコン可愛いよーという推薦、オススメありましたら教えてください。

可愛いアイコンリストハッシュタグ

#kawaiiicon

↑ご自分のつぶやきにこれをつけてつぶやくと、私が気づきます。

人権保障を住民投票にかけるべきではない

2009年11月05日 10:55

■メイン州の敗北
2009年11月3日、メイン州でQuestion 1が通り、今年合法化されていた同性婚ができなくなった。同性カップルの婚姻する権利は民衆の多数決によって剥奪された。1年前の今日-2008年11月4日-カリフォルニア州においてProposition 8が通り、同年最高裁の判断により合法になっていた同性婚が不可能になったことを思い出させる。

1年前の悔しさと悲しさが蘇る。

私が強く言いたいことはたった一つ。

カリフォルニア州だろうが、メイン州だろうが、日本だろうが、少数派の権利保障を十分な討議を経ないまま「住民投票」などという最も原始的な直接民主主義の手段に任せることがオカしい。少数派の権利保障は、司法府または立法府によって成し遂げられるべきである。

■オバマの責任とオバマの微妙な立ち位置

このブログでも何度か書いてきたが、オバマ大統領は同性婚に反対であり、「平等を支持する」とは言うものの、メイン州の住民投票においても、明確に立ち位置を明言することを避けていた。そして、オバマ大統領は自らの肖像や言葉が、同性婚禁止派から利用されることを黙認していた。

これらの態度は1年前のカリフォルニア州でのProp 8の時から一貫していた。当時はまだ大統領候補であり、自らの当選を確実にするために、同性婚についてバッシングを招くような行動を控えたというのは理解できないでもない。が、今大統領の座にあるオバマが以上のように婚姻の平等が奪われることを黙認していたのは、批判されてもしかたない。

実際、今回の選挙結果をうけて、さっそくオバマに宛に行動を促す署名が集められている。経済危機、健康保険改革、戦争…多くの問題を抱えるオバマ政権にとって同性婚は確かに一つの“小さな問題”にすぎないかもしれない。だが、私はオバマがセクシャル・マイノリティの権利を忘れてほしくないし、常にそれをリマインドし続けるのがアクティビストの仕事だと思う。この“小さな問題”はオバマにとって鬼っ子であり、下手に足をつっこむと一気に攻撃されるし、何もしなくても攻撃されるやっかいなものなのは理解している。今回の選挙では、共和党が善戦し、オバマ政権は今後苦労が予想されるが、なんとか頑張ってほしい。

アメリカ人の反応

全てではないが、今回の投票結果をうけて、メイン州を「意地悪」だと言ってみたり、「メイン州最悪」といってみたり、宗教右派を「頭の固い狂信者」と呼んだりしている人がネット上で目立った。(有名ブログや大きいメディアなどではなく、ついったーSNSなどでの一般人の生の声)

「No on hate(憎悪にノー:同性婚賛成派がしばしば掲げるスローガン)」をスローガンとするのであれば、自分たちと意見を異にする人々に対して「haters!」「bigots!」と罵倒を投げかけることは、まさしくそのスローガンと矛盾する行為であり、見ていて見苦しい。

こーゆーのがアメリカ人の芸風かもしれないが、私としてはこういう態度に違和感を覚えるし、何の解決にもならないと思う。

確かに、住民投票にむけて活発に働いたのは宗教右派であったし、実際選挙は多くの教会のお金によって支えられた。しかし、それでも各地で行なわれる住民投票では常に過半数の人々が同性婚に「ノー」と言っている。この事実とどう向き合い、そしてそれをどう受け止めるかが重要だと思う。実際同性婚に反対している人の理由は様々であり、彼ら全てが「hater(憎しみを持つ者)」「bigot(偏屈者、頑固者、狂信者)」ではないのだから、そう決めつけてアプローチすることは人々の心を変えるのに役に立たないだろう。

■今後どうすればいいのか

これまで通り、コツコツと理解を深める活動(身近な人へのカムアウトや個人的な体験談の共有、地域での教育的活動、更には政治家への働きかけ、ポップカルチャー、アート、セレブリティを利用とした感情的働きかけ…など)が重要なことに変わりはない。個人的にもそういう活動は続けるだろう。オバマ大統領やオプラ・ウィンフリーなど、「ゲイフレンドリーだが、現在はゲイリブに積極的でない影響力の強い人々」がもっと積極的に動けば、人々の心も大きく変わるだろう。

…といっても、私はもはや社会の多数派の心を一人一人変えていって投票で守ってもらおうということにはあまり期待していない。前半に書いたように、住民投票で少数派の権利が守られるということ自体ほぼないと思うし、同性婚に関して言えば、将来的にそれは不可能ではないとは思うが、あえてそれを狙っていくのは妙な戦略だと思う。

ある種のマイノリティは、どう頑張っても絶対にマジョリティにはなれないし、過半数の支持も得られないだろう。そして、たとえそうだとしても、その時にそのマイノリティの権利を保障する「仕組み」が必要なのであり、それこそ私たちが求めるべきものだと思うからだ。


結局これは「人権」の問題であり、「法の下の平等」についての話なのだ、ということをロジックで理解させるしかない。それを社会の仕組みを作っている一部の人間に理解させることが必要。具体的には、司法が大きな役割を果たすだろう。黒人公民権運動において、裁判が大きな役割を果たしたように。

現代アートの人気者Banksy大先生を崇めることの矛盾と滑稽さ

2009年11月04日 09:12

グラフィティは多くの都市において犯罪であり、逮捕されることもある。

banksy.jpg

通常はグラフィティ禁止のエリアに描かれたBanksyのグラフィティが、住民投票によって保存されることが決定したが、その後、他のタガー(グラフィティ・ライター)がBanksyのグラフィティの上に落書きをしてしまったというニュースを今日読んだ。(参考記事

500x_banksydeface2.jpg
500x_banksydeface.jpg


この件を皆さんはどう思うだろうか。

「せっかくのBanksyのアートを、落書きで汚しやがって!もったいない!」?

うん。気持ちはわかる。もったいない。つか残念。ライターたちが仮にもアーティストであるなら、Banksyの作品に対して敬意を払うべきだったというのはわからないでもない。結果的に美観的にはアレだし、センスが悪いと思う。が、私はどこかで、「はは!やるならもっとやれよ!」って思っちゃった。どうせならもっとカッコいいコラボレーションとかにしてほしかったけど。だが、そのうえで、なんとなく「ざまぁ!」というか、小気味よいものを感じた。

というのは、私は、Banksyに上書きしたタガーたちの行動よりも、Banksyが有名になったから、オーケー、じゃあうちらはBanksy大先生のグラフィティを保存します、あわよくば観光名所にしちゃえ♪みたいな姿勢に対して、より警戒心を覚えるからだ。今回の壁画保存投票は、地域住民によるものであり、決して企業の利益になるものではなかったが、雰囲気としては、2010年オープン予定の渋谷のNIKEパーク、もしくは、2005年にSONYがPSPのために行い、こてんぱんにバッシングされたグラフィティ・マーケティングの気持ち悪さにも通じるかもしれない。今回の件がダイレクトにそうだったとは言わない。が、アンチ・エスタブリッシュメントのムーブメントすらも取り込み、利用しようとする資本主義や権威の動きには唾棄すべきものを覚える。

Banksyの作品は、アンジェリーナ・ジョリーなどのセレブたちに高額で購入されるなど、既に世界的な人気と知名度を獲得している。展覧会が開かれ、美術館のオフィシャルコレクションにも作品が収蔵され、アート界においてエスタブリッシュメントと化していると言っていい。

それ自体が一種の矛盾なのだ。

念のためはっきり言っておくと、私はBanksyかっこいいと思うし超好きだ。尊敬している。Banksyの作品が街から消されないでほしいと思っている。だから基本的にはBanksyの作品を保護するという姿勢には賛成。あと今回のように汚い上書きがされればがっかりする。それは事実。

だが、本来はストリート出身のBanksyのスピリットを理解しようとせずに、「Banksyが描いたから」というので、ありがたがって大枚はたいて彼の作品を買って豪邸のリビングルームに飾り、大富豪のお友達たちとウィスキーのグラス片手に「ほお…なかなか…」と言ったり、他のストリート・アートへの理解はないままに、一般的なグラフィティには眉をひそめて、せっせと消すくせに、Banksyの作品は単にそれがBanksyだからという理由だけでありがたがって保護するというのは、滑稽でしかたない。過去には、ロンドンの落書き対策チームがBanksyの作品を誤って消してしまったという「事件」もあった。「落書き対策チーム」にとってBanksyの作品と落書きとの見分けがつかなかったというのは象徴的であって、それはそもそもBanksyのアートのルーツは「落書き」だから。Banksyがここまでクールな理由の一つは、それがストリートにゲリラ的に描く「落書き」だから。ある意味インスタレーション・アートなのだ。そして、彼のアートに含まれるメッセージは、政治的であり、非常に痛烈な資本主義、エスタブリッシュメントに対する批判。彼のアートの存在自体が、権力に対する抵抗である。

6a00d8341c51c053ef00e54f368aee8833-800wi.jpg

Banksyの作品は、美術館に飾られているからスゴいのではない!
Banksyの作品は、有名だからスゴいわけではない!
Banksyの作品は、何千万円という高額で落札されるからスゴいわけではない!

Banksyはそもそもそれらのエスタブリッシュメントな評価基準に明確に「ノー」と言っているのだから。

Banksyの作品を大枚はたいて買って大層に美術館に飾ったり、Banksyのデザインを使って金儲けをしたり、彼が有名になったからという理由だけで彼のグラフィティを保存しようとするのは(Banksyの作品は普通にクールなので、気持ちは分かるし、その欲望自体は決して否定しないが…)、非常に矛盾をはらんだ行為だということを常に自覚するべきである。その矛盾を意識せず、「世間・美術界・エスタブリッシュメントの評価」に裏打ちされていることを理由に「Banksy大先生」の作品をただありがたがって所有したがったり保存したがるのは単にポン助だとしか言いようがない。

These galleries are just trophy cabinets for a handful of millionaires. The public never has any real say in what art they see.

-Banksy

従業員は経営者のビジネスについて経営者のようには考えない

2009年11月02日 15:24

たまに、従業員に対して、(ただ指示されることを待つのではなく、)「経営者のように考え、行動する」ことを求める経営者がいる。言いたいことはよくわかる。自分でビジネスを生む従業員でなければ、会社にとってプラスではないからだ。机の前に座ってじっとしているだけで自分の給料がどこかからか生まれてくるなんていう幻想を持っている従業員を雇いたい経営者はいないだろう。

ただ、そのうえで言うが、「経営者のように考え、行動する従業員」なんていうのは、結局経営者のみるいびつな夢…全ての従業員を自営業者として雇いたい(労働組合だの、福利厚生だののめんどうから解放される!)というのにすぎない。

人が「従業員のようにしか考えない」のは、必ずしもその人の能力やモチベーションに問題があるからではなく(←もちろんそういう場合もあるし、大抵の経営者はそう考えたがる)、結局その人がそのビジネスに対して従業員としてのコミットしかしていないからである。誰しも自分のビジネスに対しては「経営者として考え、行動する」し、他人のビジネスに対しては「従業員として考え、行動する」。それは当然のことだから、それに対して文句を言うのは筋違いだ。

経営者の文句が「従業員のスキルの低さ」と「従業員が従業員としてしか考え行動しない」ことを混同しているように聞こえることがあるのよね。…社員のスキルが低いというなら、トレーニングすることを考えなきゃいけないし、社員の定着率が低いなら、待遇や福利厚生を考えて残ってもらうことを考えなきゃいけない。なんであんたらの雇用を創出するために、自分がここまで身を粉にしてやんなきゃならんのか?という経営者の気持ちは確かにわからないでもないが、経営者は経営者としての特権を手にしている以上、それに対するトレードオフは甘受すべき。ましてや有給や残業手当などの権利の行使に文句を言うのはとんでもない。従業員は確かに9時5時でしかものを考えないかもしれないが、経営者が24時間仕事のことを考えるのは自分のビジネスなのだから、当然でしょう。(従業員も自分のビジネスに対しては24時間態勢で望むだろう)それを、従業員個人個人の能力やモチベーションの問題であるかのように話すのは何か違和感を覚える。

従業員は経営者のビジネスについては経営者としての立場にはいないのだから、彼らがそのビジネスについては「従業員のように」考えるのを当然としたうえで、どう手を打つか考えるのが経営者の仕事ではないでしょうか。

文字だけでは伝わらない

2009年10月27日 08:52

まずは前回のエントリのおさらいから。

前回は、全ての動画に字幕をつけてくれ!(聞き取りできない人でも、読めばわかる人がいるから)という趣旨のものでしたが、一見それと逆ベクトルの話に聴こえるかもしれないが、決して矛盾するものではなく、両方実感していることなのでセットで書きます。

それは

文章より動画にすることで(or音声を付加することで)、伝わり方がぐっと違うよね。

ってことなんです。

つまり、前回は「音声や動画だけでは不十分なので、テキストデータを付与してくれ!」ってことでしたが、今回は「テキストだけだと分かりづらいけど、音声や動画を入れることによってすごく分かりやすくなる時もあるよね」ってこと。

これも、やはり第二言語で生活して初めて痛感したことなのだが…。

私は結構、文章を読み書きするのが好きで、文章の力というのを非常に信じていた。だが、それが「外国語で」となると、簡単なことでも文章だけで理解するのが非常に難しく、「…で結局、この人は何がいいたいの?結局選択肢はいくつあるの?」的な、大局的な理解などを文章だけでするのに非常な不便を感じることに気づいた。

そんな時は、リアルな友達に電話して「結局あの問題ってなんで揉めてんの?」とか口頭で説明してもらうことによって、自分の理解を深めたり、混乱を整理したりしている。また私はラジオをよく聴くのだが、ラジオは大抵話し言葉で対話形式でトピックを取り上げるので、それは非常に分かりやすい。新聞の一つの記事を読みきることは、自分にとってはキツいのだが、同じことでも、ラジオで解説されてると、「ふむふむ」ってな形でするすると頭に入ってきやすいことに驚愕したのです。

(それこそ、文章を読み上げてくれるだけでも、場合によっては、文章より頭に入ってきやすい。もちろん、…前回のエントリの繰り返しになるが…そのラジオの内容が全て文字おこしされててウェブで読めると、不明確だったところを確かめられるので最高!なのです)

なので、何が言いたいかっつーと、そういう「文字」以外のやり方で頭に入れさせるというのはすごい威力があるんだなーっていうのを、今痛感している、ということなのです。

小林よしのりのマンガとか、マイケル・ムーアの映画とかはそれをうまく利用していると思うし(二人の方向性は違うけど方法論としては似てる)、IKEAの組み立て説明書とかがその究極形。あれはまったく言葉を使わずに「イラスト」で完全に伝えてるでしょ。

あーいう「図解でわかる!」とか「マンガでわかる」とか「ビデオで簡単!」とか、そういうサポートを私は日本語ではあんまり必要としてなくて、「いやいや、普通に文章で言ってくださればわかります!」って思ってたんだけど、意外に「文章読むのが面倒くさい」…もっというと、「文章が読めない」っていう層もまた結構いるのかな…って、気づいて、そういう層にリーチするためには、イラストや動画や音声を使ったマルチメディア(死後)的なアプローチが非常に重要になってくるんじゃないかなと思った。

例えば、言葉で「ゲイであることは、僕の全てではない」と読むのと、

Youtubeでこのビデオを観るのとでは、



インパクトとか、伝わるものとかがまた全然違うと思うんだ。

あと、「靖国神社はうんぬんかんぬん」と文字読むのと、

「靖国ジャズ」を聴くのとでも、全然違うだろうし。



↑てかこれ、もっと激しくアレンジして椎名林檎風にかっこよく歌ったら超ウケるのではと思う。


こうやって、エモーショナルで分かりやすい部分から入ってくるのが、常によいかというと、それはまた別の話だが、そういうアプローチが、「文章だけでは届かなかったところに届いて行く」ことは否定できない。だから、こう…私がよく文章で主張している内容とかも、それを、「文章以外の方法で」やったら、また違った層に違った形で届いて行くのかな〜とか最近よく考えている。…っていうことをまた文章で書いてるあたりがアレなんだがな。

ま、私が今年からやってるインターネットラジオはその試みの一貫と言えるかな…。ラジオ以外にも、マンガとか動画とか音楽とか…私1人ではできないし、まあここらへん役割分担というか人それぞれ得意分野があるので、私がすべてをやる必要は全然ないんだけどさ。自分自身、いろいろな工夫をしていきたいし、いろいろな人の試みを紹介していけたら、って思っている。誰かなんか面白いこと思いついたら一緒にやろーぜい!


最近の記事